久々に。。。
本を読んだ。
「サヨナラ、学校化社会」という本なのですが、この本の作者は相当に有名らしいです。
よく聞く話で「出会うべくして出会った本」なんてのがありますが、最近の俺の気分にぴったりな本でした。
特に面白いと思った2つの考え方があったのでそれを紹介します。
P.102
学位をとることがそのあとの職業の手段になるとしたら、学位は生産財になります。しかし手段にならないとしたら、学位を得ることじたいが自己目的になります。それが消費財としての学位です。
- 日本の社会はこんなに大量の修士や博士を必要としていない。。。の文脈で
P.178
ブルデューは、学校が優勝劣敗の競争敗者に自分の劣位を納得させるためのふるい分けの装置だと論じたさいに、あわせてひじょうに皮肉なことを言っています。「教育年限の延長というものは、二流のエリートに自分の二流性を納得させるまでにかかる期間の長さである。」と。
もし俺が物理学を活かして、物理学で学位を取得しているからこそ選択可能な職に就くとしたら、俺は「学位」を資本に知識労働していくことになる。
そうした時に「学位」は生産財として位置づけられる。
その意味で「学位」を取得することは手段になっているわけです。
物理学で分かりづらければ、MBAなどがその顕著な例です。
逆に消費財としての「学位」は、「知る」こと自体が目的となっています。限りなく自分勝手な、自分の知的快楽を満たすために消費する「知」。それが形になったものが、消費財としての「学位」というわけです。
このことを踏まえてふと思ったのが、とりあえず高等教育で扱われている事柄と言うのは、「消費財」として存在していてもいいのではないか?ということ。特に物理をやってみて、「これで生計を立てるんじゃなければ、趣味で面白いだろうな」って思えるので、自分は「消費財としての学位」型なのでしょう。
ともあれ、高等教育のなかには「消費財」としての学問が無限に広がっているのではないでしょうか。
では初等・中等教育はどう位置づけられるのか?うーん、追々考えてみます。
次にブルデューの発言について。
いきなり話をずらしてしまうと、最近俺が感じてるのは、
就活にしろ、院試にしろ、自分のあるべき姿を『無理矢理』探し出して、そこに自分をはめ込む作業なんだな。しかもその底辺には『がんばればどんなことでもやれる』という根拠のない自信が根を張ってる気がする。
ってことです。
このことって、昔から興味のある分野を楽しみながらものにしてきた人には当てはまらないでしょうけど、俺みたいにあてもなく、ただ他の科目より得意だったから物理を選んだような人間には、こう感じられるわけです。
特に俺ぐらい中途半端に「できる」人間は、『頑張れば』一番になれるんじゃないかって錯覚しがちなんだよね。結局は企業の求める、あるいは教授の求める労働力に作り変えられて、細々と人生を送るだけなんだけど。
そういうことなら、いつまでも「一流として成功している自分像」を描き続けるのってバカバカしくなってきます。二流でも何でもいいから「今」を楽しむ人生。少なくとも「将来のために今を食いつぶす人生にはしない」という考え方が自分には必要なのではないだろうか?そう思えるのです。
多分、この考えを持っていなかったら、俺は「二流」であることを大学院で思い知らされたことでしょう。今のうちにこの本、そしてブルデューの言葉に出会っておいてよかった。
おかげで、「一流の生き方」しか考えられていなかった俺に、「二流の生き方」というなかなか面白い選択肢を増やしてくれました。
さて今日はこんなところで。
長々とこんな拙い文章にお付き合いしていただいた方、心よりお礼申し上げますm(_ _)m
- 作者: 上野千鶴子
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