同和

id:cigueくんが「障害について」(3月29日)っていう日記にコメントをくれたので、それに関連して同和問題について書いてみようと思います。


某銀行で人事をされてる方にいろいろと話を聞かせてもらった時のことです。


私:「同和の人って結婚する時調べられるっていうのは今でもあるもんなのでしょう?」


その人:「結婚の時は分からないけど採用の時には調べたりするもんだよ。確かに昔は差別部落出身であることが採用において不利に働いたわけだけど、今はかなり改善されてきている。ところが公平な人事の結果、部落出身者が採用される年・されない年が出てくるわけで、採用されない年には部落解放運動の方からクレームがつく。だから採用の時には部落出身かどうかを調べるんだよ。」


とのこと。正直同和問題に関しては学校の授業でも扱いは軽く、あまり印象に残ってはいませんでしたが、その話を聞いた時に「あれは現在進行中の問題だったんだ」と認識を改めた覚えがあります。


その人の話によると、この手の問題は特に関西で根強く残っているそうです。


なぜこの話をしたかと言うと、id:cigueくんが『正直な話、C君*1などはテストの際にいつも優遇されてみんな不満でした』と言っているように、障害を持っている人、あるいは上で述べたように同和の問題を抱えている人は私たちのような「普通の人」とフェアな競争になりえないことを再認識しておきたいんです。


やはり人を評価する時って、性格や能力だけでは済まされませんよね。自分の知らないところで部落出身者であるかどうか調べられていて、それが多少なり就職に影響するなんて信じられませんが、それは実際に存在していたわけで、自分の能力と関係のない要因で評価を受けることっていうのは他にも存在するのかなって考えさせられました。


という感じで思索を巡らせていくと、果たして「公平な競争」って何だろう?って思います。例えば身体的な障害を持つ人と私とを比較して、知識労働者として私が劣っている場合、それでも身体的制限のおかげで私が採用されることが多々あるでしょう*2。私たちが当たり前のようにこなしているセミナー巡りも障害を持っていると大変だろうなぁ。。。


というわけで何が言いたいかっていうと、私たちが教育の現場やビジネスの現場で見ることのできる「競争」というのは、見えない要因(障害・部落etc.)によってかなり特殊な、狭い範囲に限定されたものだろうと言いたいわけです。


後日述べたいと思いますが、私の切り口は「老いを障害として捉えた超高齢社会」でありますので、現場での活動を通して現在の競争社会について考えていきたいですね*3

*1:耳の聞こえない子

*2:人を評価するうえで行動範囲っていうのも評価基準になるうるのではではないかという意味で

*3:在宅介護支援通所施設(デイケア)でバイトをさせてもらってますので