時間

俺ってば食い物には1200円もかけないのに、古本だと衝動買いしてしまうんですよね。。。というわけで今回はこの一冊。


真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

この人の本として、見田宗介現代社会の理論』(岩波新書)がありますが、素人にも読みやすく、現代社会をいかにして読み解くのか、その一つの視座を与えてくれる良書だと思いました。今回も、まだ序論にしか目を通せていませんが、そんな予感のする一冊です。


本の内容について一言だけコメント。


「死のかなたや歴史の終末に向かう抽象的に無限化された未来というのは、普遍的なものではなく」、ある部族の言語を調べてみると、2〜6ヶ月以上先を言うための動詞がないとのことである。これを筆者は「具象のうちにある時間の感覚と、抽象化された時間の観念の問題なのだ」とまとめているが、これは我々が日常的に抱く「将来」であったり、「老後」であるといったものを客観視するきっかけを与えてくれる。


「ある部族」の人からすれば、<今>の先にある<未来>を実感できるのはせいぜい2〜6ヶ月程度のことであり、そこから先の<未来>は「ない」と捉えているのである。それと比較して「我々」は、「将来」や「老後」をという実感できない<未来>を、どういうわけか志向しようとしているのではないか?と問題提起できるのではないか。


きっとこの先を読み進めば、この問いに対する一応の答えは出るであろうけれども、今回はひとまずここまで。


あとはメモ。


P.9 <人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。(改行)さらに「みじかさ」が、たんに相対的不満ではなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれ自体として充足しているという感覚が失われ、時間が過去を虚無化してゆくものとして感覚されるからである。



P.23 山や小川や泉や沼は、原住民にとっては単なる美しい景色や興味ある景観にとどまるものではない…。それらはいずれも彼の祖先の誰かが作り出したものなのである。自分を取り巻く景観の中に、彼は敬愛する不滅の存在[祖先]の功業を読み取る。(中略)その土地全体が彼にとっては、昔からあって、今も生きている一つの家計図のようなものである。


p.24 ストレーロウがいうように、「こんにち白人が――ときにはわざとでなしに――先祖の土地を汚したことを語るとき、北アランダ族の男の目には涙が浮かぶ」のは、自然と人間のあり方が近代文明の世界のそれとは異質なものであるからだ。


P.27 [アフリカ人の伝統的な観念によれば]時間は長い<過去>と<現在>とをもつ二次元的な現象であり、事実上<未来>をもたないのである。西洋人の時間の観念は直線的で、無期限の過去と、現在、無限の未来とをもっているが、アフリカ人の考え方には実際上なじみのないものである。未来は事実上存在しない。未来の出来事は起こっていないし、実現していないのだから、時間を構成しえないのである。確実に起こる未来の出来事や、不可避的な自然のリズムにのったことがらはたんに<潜在する時間>を構成するだけで、<現実の時間>とはみなされない。現に起こっていることがらはもちろん未来をひらくけれども、ある出来事がひとたび起こってしまえば、もはやそのことは未来にではなく、現在と過去に属するのである。だから<現実の時間>とは、現在のものと過去のものである。時間は「進む」というよりもむしろ「退く」ものであり、人々は未来のことを思わず、すでに起こったことがらを思うのである。


p.38 時間は、機会、目的、必要性の一側面であり、それらと切り離して独立に費やす種類のものではないのである。